私の手元にあるのは光文社文庫版で、読んだのもコレである。
また、同じく光文社から笹沢左保コレクションとしても刊行されており、本作は多作作家としての笹沢左保の中で、ひときわ読みやすく入手しやすい部類に入る。
そんな「招かれざる客」が新装版で出る、このこと自体に問題はない。
しかし、徳間文庫版の装幀はアニメ調のイラストである。
シリアスな表情の女性キャラクターがりんごを手にしたイラストだ。
ここで、大分前に読んだ本作を思い出してみる。
この表紙に描かれている女性キャラクターは〇〇子だろう。
詳しいことは避けるが確実に言えることは、この作品は一人の登場人物をクローズアップして描かれたものではないということだ。
たとえば、松本清張の「黒革の手帖」は、一人の女の生きざまと成り上がりを描いた作品である。
そういった作品には登場人物の個性は重要だ。
つまり、装幀にはその女性を描くのは当然であり、むしろそれが作品を通して最もスタンダードともいえる。
しかし、「招かれざる客」はそういった特色を持ち合わせてはいない。
本作の見どころは、小気味の良いトリックが複数使われているというところなのだ。
徳間文庫版は有栖川有栖推薦という名目がある以上、おそらく推薦者が解説を書いていると思われるが、「招かれざる客」は最近のエンタメ色の濃いミステリーに負けないほどのトリック小説である。
トリックを惜しげもなく取り込んだその作風は、最近の本格ミステリーの元祖と断言しても間違いではない、そんな偉大さを若い読者に知ってもらいたいという狙いがあるのだろう。
しかし、作中の人物をわざわざ装幀にイラストとして描写するほどキャラクター性が強いわけではなく、本作の人物描写は淡々としている。
読んだのはだいぶ前にもかかわらず、犯人もトリックは記憶しているが、この女性がどういった人物であるかについては、本作ではあまり重要ではない。
にもかかわらず、強引にイラストめいた装幀にしてしまうのはいかがなものか。
最近のミステリーはキャラクターも作風の一つとみなされているのだから、そういった作品の装幀がアニメ調になることは問題なく、むしろ作風に合致している。
だが、半世紀も前に書かれた本作に、なんでもかんでもアニメ調にしてしまうというトレンドを当てはめてはいけない。
ましてや、たいしてクローズアップもされていない登場人物を、さも作品の顔のように描写することは...。
私が本作を読んだ理由は、笹沢左保の初期作品はヤベェという評判を目にしたからである。
それは、同時期に書かれた他の作家の作品の解説あたりから仕入れた知識だ。
「霧に溶ける」も読んでいるが、多少の強引さはあるもののあの発想には驚いた。
こんなトリック小説を、初期の笹沢左保が乱発していたと知れば、本格推理好きとしては黙っていられるはずがない。
そんな経緯がある私だから、徳間文庫版にここまでの関心を寄せたということになる。
しかし、徳間書店側が想定した笹沢左保初心者の若い読者は、有栖川有栖推薦の文字と装幀のイラストに引き付けられて本書を手にするのだろう。
有栖川有栖は多くのミステリー愛好家に人気があり、その作家が推薦するのであれば、昔の作品であろうと手にしやすく読んでみたいと思う、そのように出版社側は予想したのではないか。
実際、本作は面白くスゴイのだから、若い読者もきっと気に入るだろうとも思う。
しかし、装幀をイラストにすれば読者が釣れるとも考えているような浅ましい商業展開に違和感を感じているのも事実。
ミステリーとSFは、特にこのなんでもかんでも萌え絵にして読者を釣る行為が蔓延しており、定期的に「最近のミステリーとSF、ラノベみたいになるwww」のような記事を見かけるぐらいである。
最近書かれた作品を、ライトノベルのような表紙にしても何の文句もない。
それはそういう作風なのだから。
しかし、そういった風潮ができる前から存在している作品を、強引にそれに寄せることは、ただキャラクター性だけしか褒めるところがないと宣言しているようなものだ。
まるで、トリックと論理性を重視したまっとうな本格推理よりも、アニメ調イラスト調であればそれだけでこちらの方が優れているといわんばかりである。
そんなわけあるか。
本の表紙が変わることで、昔の方が良かったと批判する読者がいることは以前から知ってはいたが、正直なところ、新しく出版された新品としてその作品が読めるのだから別にいいのでは、とたいして関心を寄せなかった。
しかし、今になって初めて、こういう批判をする読者の心理を理解できたように思える。
昔の方が良いというよりも、作風と装幀が一致していないという奇妙な違和感に...。
作者や作品が読者に合わせるのではなく、読者が作者や作品に合わせるのが普通であると、今一度、ここで宣誓しておきたい。
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